Sober Curious Life 自分から逃げずに向き合う

窓の外、遠方に目をやると、濃淡様々な木々が山を覆っている。ある部分はランダムにモザイク状に、ある部分はやや大きな塊となって、黄緑色の木々の中に深緑色の模様が描かれている。より手前に目を向けると、様々な鳥が虫を求めて、あるいはなんの目的もなく(のようにみえる)空を飛び、時折誰かの家の屋根で羽を休めている。夕方前の穏やかな日差しの中、さまざまなものがその光を存分に受けて、各々に必要な力を蓄えているように見える。新緑の季節がやってきたのだ。

僕はもうお酒の事は考えない。いや正確にはお酒を飲みたいという欲求を感じない。お酒を日常的に飲んでいた頃であれば、特にやることのなくなった、こんな気持ちのいい午後には、お酒が欲しくなり、結果つい飲みすぎてしまったことだろう。たまにであればそんなに生活に影響はないのかもしれない。少しやることリストを調整し、日程を変更したり、あるいはささいな用事をあきらめたりすれば、お酒で消費された夜の時間や、二日酔いでつぶれた朝の時間をカバーできるだろう。しかし、それが日常的に起きると話は違ってくる。やることリスト、あきらめた用事は積み重なり、それにより自己嫌悪、焦燥感に駆られ、ついには無気力が襲ってくる。そのプレッシャーでまたお酒が欲しくなる。悪循環だ。僕の場合には日常生活にそこまで悪影響は出ていなかったが、自分が理想とする生活を送れていないのではないかという焦りがあり、またそれをお酒のせいにするのは、どこまでが正当で、どこまでが言い訳なのか(自分の生来のなまけ癖のせいなのか)見分けがつかなくなっていた。要するに僕はそろそろお酒との付き合い方を考えなければならない時期に差し掛かっていたのだ。そして、結論から言えば僕はお酒を完全にやめることができた。お酒をやめてみてわかったのは、それだけで何事もうまくいくというわけではないということだ。常に元気でやる気に満ち溢れ、楽なことに流されず最高のパフォーマンスを発揮できるということはない(最初は僕もこうなることを期待していたが…)。しかし、断酒することでこれまで無意識に目をそらしてきた自分の弱さや、現代人に宿命的に存在する退屈感といったものに目が向くようになり、人生観に大きな転換をもたらすきっかけになったと思う。断酒はゴールではなく、新しいスタートを切るための最初のステップに過ぎなかったのだ。ここについて語ると長くなるので別の機会に語りたいと思う。

僕がお酒をやめた経緯につい話そう。僕がお酒を完全にやめようと思った日時ははっきりと覚えている。2021年5月24日だ。その日の朝、ひどい二日酔いで目が覚めた。前日友人と焼肉に行き、そこでがんがんお酒を飲んだのだ。どうやって帰ってきたかは記憶があいまいである。これくらいのことはそれまでに数えきれないほど経験してきたのだが、なぜかこの日は、もういい、お酒はここまでだ、という気持ちが自然に浮かんできた。これまで節酒しようかなとか、休肝日をつくってみようかなとか思ったこともあったから(それはその日のうちか、長くて数日中に取り消された)、その気持ちも半信半疑ではあったが、それでもそれまでとは少し違った予感があった。今度は本当にやめることになるかもしれないと。

そして、結果的にその予感は当たることになる。僕はもうかれこれ約3年間お酒を一滴も飲んでいないし、今のところまた飲みたいという欲求に駆られることもない。あの日、僕が自然にお酒を完全にやめようと思えたことは、天から与えられた啓示のように感じている。作家の村上春樹さんは野球の観戦中にふっと小説を書こうと思ったと述べている。僕の断酒と有名作家の小説とではものは全然違うが、少なくとも僕の感覚としてはそのエピソードに強い共感を感じている。

僕にとってお酒を完全にやめられたことは、人生においてとても歓迎すべき出来事だったのだ。そして、そこから得られた経験や知識などを人々と共有し、ささやかながら役に立てればと思う。

また窓の外に目を向けると日がだいぶ傾いてきている。西日を受けた木々や、家々の壁面の光の反射が、郷愁的な気持を生じさせる。とてもささやかで、静かな感傷だ。この感覚はおそらくしらふでなければ持ちえないものだ。自分の感覚を大事に持ち、Sober Curious Lifeを送りたいと思う。

*Sober Curious(ソバ―キュリアス):お酒を全く飲まず、しらふで人生を面白おかしく過ごそうという考え。2018年に英国出身のジャーナリスト、ルビー・ウェリントンが出版した本で考案された言葉。

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